1561年頃、ポルトガルのセルナンセーリェに生まれ、1575年ゴア着。1577年、マカオを経由して来日、府内に赴いて1580年にイエズス会に入る。臼杵のノヴィシアド(修練院)で修練期をすごし、府内のコレジオ(学林)で人文学と哲学過程を追え、1年半神学を学ぶ。1586年の島津軍の豊後侵入により翌年以後4年間、八良尾のセミナリオ(神学校)のラテン語教師となり、日本語で説教しうるに至る。1590年、長崎のコレジオ神学生となるが、翌年、ポルトガル領インド副王の使節の資格で再来日したイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに伴い遣欧少年使節の通訳として上洛、秀吉に謁した。1592年、朝鮮侵略の本陣名護屋で秀吉の歓待を受ける。翌年、神学過程終了、名護屋で家康の知遇を得、上洛し秀吉に謁して都の布教に従事し、翌年の年賀に秀吉を訪問。

 

1596年、マカオへ送られて司祭に叙品され、長崎に戻る。同年に起こった「26聖人の殉教」に際しては、イエズス会士とポルトガル人に累が及ばぬよう策した。1598年、臨終の秀吉を見舞い、以後追放されるまでの12年間、プロクラドール(財務担当司祭)の要職に就き、世俗的な能力をも大いに発揮するところがあった。

 

1608年、日本イエズス会中最高の日本学者として、『日本大文典』を長崎学林から刊行するが、1610年、長崎の貿易と政治問題に介入しすぎたため、マカオへの退去を余儀なくされる。

 

1613年から1615年にかけて中国内地を旅行した後、マカオに帰り儒仏道の三教を研究して、カトリックの唯一絶対神を表す言葉として「天主」を避けて、日本におけると同様、原語主義を採用するよう主張した。

 

1620年に『日本小文典』をマカオのマードレ・デ・デウス学林から刊行。当時日本におけるキリシタン迫害はますます厳しさを増していたが、そのような時期に『日本小文典』という優れた日本語研究書が出版されたこと自体、ロドリゲス個人の学問的情熱を別とすれば、マカオの教会当局者に日本布教への希望が消えていなかったことの証拠となりうるであろう。この頃から没年まで『日本教会史』の編纂に没頭、日本文化に関する蘊奥を極めた知識をそこに披露した。

 

1628年から1632年にかけてポルトガルの討清軍に従軍、通事として北京へ二度赴き、功績によりイエズス会として初めて明朝最後の皇帝毅宗の感状と賞状を受け、1633年にマカオに帰還。この年の8月1日にヘルニアのためマカオで亡くなったと記録されているが、『日本教会史』の自筆稿本から、没年は翌1634年と推定されている。

 

 

 

長崎学林刊『日本大文典』では、当時の標準的口語の発音をはじめ、口語を中心に文語を対照しつつ文法が説かれ、韻文、書状、文書などの各種文章語も扱われている。ラテン語の文法的範疇とその文典の組織に即して日本語文法が詳述してあるが、その範疇の外にある敬語法や、「てにをは」のほか、日本語独自の事実も具体的に整理され確かな知見が示されている。また方言的相違、発音や表現上の誤りなども規範的立場に立ちつつ細かく教えている。これに対して、マードレ・デ・デウス学林刊『日本小文典』は前者を簡約化し、日本語文典としての組織を整えたものであるが、ローマ字綴りを一部改良したほか、新たに加えた事項もあり、巻三に詳しく説かれる日本人の人名呼称論などはその重要な一例である。

 

 

 

ロドリゲスの最晩年の著述『日本教会史』では、キリシタンという新奇な宗教を、日本という異質な文明に移植するにあたっては、その前提として、その国の地理、風俗、文化に包括的に精通しておくべきであるという、現代の「地域研究」にも匹敵しうる驚くほど近代的な方法論が見事に開花している。「日本とは何か」という茫漠たるテーマの解明は、現代なら、極度に細分化された専門家の共同研究に俟つしかないのであろうが、ロドリゲスにはこの壮大な領域を包括的に、かつ独力で征服したのである。世界で盛んに行われているJapanologyの一源流が、ロドリゲスその人にあるとされるのは至極当然のことといってよい。

 

(日埜博司編訳、ジョアォン・ロドリゲス著『日本小文典』(新人物往来社)「編訳者の例言」より一部抜粋)

 

<関連書籍>

 

『日本教会史』ジョアォン・ロドリゲス 平凡社(大航海時代叢書)

 

『日本小文典』ジョアォン・ロドリゲス 新人物往来社

 

『日本語小文典』ジョアォン・ロドリゲス 岩波書店

 

『通辞ロドリゲス -南蛮の冒険者と大航海時代の日本・中国』マイケル・クーパー 原書房