1525年にリスボンで生まれ、1583年河内浦(現・熊本県天草市)で生涯を閉じた。

 

日本で初めての南蛮外科医であり、病院や孤児院設立などを行った一方で、イエズス会修道士として布教にも力を注いだ。

 

1548      医学を修めた後、商人としてインドへ出立。中国と日本の交易で多大な財を成す。1552   初来日し、ザビエルの後任として布教活動を行っていたコスメ・デ・トーレスに出会う。

 

1555      それまでの富を捨て、布教活動をするべくふたたび日本に向かい、平戸に上陸。1556      自らの財産を寄進してイエズス会に入会。平戸から豊後の府内に赴き、領主大友義鎮(宗麟)に孤児院・病院建設を進言する。

 

1557      領主の了解と自らの富でハンセン病棟と一般病棟からなる病院を府内に創設。アルメイダ自ら、外科を担当して臨床的に外科医術を指導するかたわら、薬草の調査・研究を行っている。内科は主として日本人医師が担当し、漢方医学を伝授した。この病院は評判となり、遠く関東からも患者が訪れたという。当時、駐在していたアイレス・サンシェス修道士の報告によれば、病院には毎日治療を受けに来る人々のほかに、100名以上の患者を収容していた。

 

しかし、その盛況にもかかわらず、イエズス会は宣教師が医術に携わることを禁じたため、同病院は1562年を境に消息が途絶えた。短い医療事業ではあったが、アルメイダの外科医術は日本人の門弟により「南蛮流」の名で継承された。

 

1562            長崎の横瀬浦に到着。大村領主大村純忠に謁見、横瀬浦開港の交渉を行う。大村純忠は領内の布教を許可し、さらに横瀬浦周囲3里の地とそこに居住する農民とをイエズス会に与えた。横瀬浦は開港され、教会も建てられた。

 

1563~1580純忠への反対勢力が横瀬浦を襲撃。アルメイダは長崎に向かい、1567年に長崎に教会が設立され、1571年には貿易を目的として長崎の町が建設されポルトガル船が入港した。1580年長崎はイエズス会領となり、豊臣秀吉に没収されるまで修道会領として繁栄した。

 

1583      島原、天草などで熱心な布教活動を行った後に天草の川内浦で逝去。

 

<関連書籍>

 

『南蛮医アルメイダ』 東野利夫・著 柏書房

 

『聖母の鐘-南蛮医アルメイダの遺産』 篠田達明・著 新潮社