José Saramago I

本日、6月18日はポルトガル語圏唯一のノーベル文学賞作家であるジョゼ・サラマーゴが没して10年となります。
多くの傑作を著したサラマーゴですが、未曽有の伝染病に侵された世界を描いた “Ensaio sobre a Cegueira”(邦題『白の闇』・河出文庫)は、現在世界中で多くの人に読まれ、没後10年を経てサラマーゴの作品はふたたび注目を集めています。
6月25日まで開催中の映画祭「EUフィルムデーズ2020オンライン」では、サラマーゴの没後10年を記念して、その晩年の姿を密接にとらえたドキュメンタリー作品「ジョゼとピラール」(ミゲル・ゴンサルヴェス・メンデス監督)を出品しております。
「ジョゼとピラール」では、サラマーゴが『象の旅』と題した小説の執筆に着手したものの途中で病に倒れ、未完のまま終わるかと危ぶまれますが、妻のピラールの支えで奇跡的に回復を果たし、作品を書き終えるまでの過程が描かれています。残念ながら『象の旅』の邦訳はありませんが、ジョゼ・サラマーゴ財団の会長であるピラール・デル・リオ氏の許可を得て、映画の上映に合わせて一部を抜粋訳してご紹介します。
『象の旅』は、16世紀にポルトガル国王ジョアン3世が神聖ローマ帝国の皇太子であるオーストリアのマクシミリアン2世の婚姻の祝いに象を贈ったという史実を基にしています。リスボンを出発してからウィーンに辿りつくまでの象のソロモンの旅路が、サラマーゴ独特のユーモアとアイロニーを散りばめて語られています。
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「(…)この会話から十日後、太陽が地平線に顔を出すや出さぬやの時刻に、象のソロモンは二年間をわびしく過ごした囲いをとうとう去った。護衛隊は国王の命令通りに組まれ、象使いは象の背中に乗って高みから象に指示を出し、必要とあれば何でも彼に手を貸す助手が二人、そのほかに食料係、道のでこぼこであっちからこっちへと滑ってばかりの水桶と、あらゆる種類の飼葉の巨大な山を運ぶ牛車、関係者が揃って無事に港に到着するように道中の警備を担う騎兵隊、そして最後に、こちらは国王の考えが及ばぬものではあったが、二頭のラバに引かれた物資補給隊があった。野次馬や見物人の姿がなかったのは、あまりにも朝早かったこと、出発が極秘であったこともあるが、唯一の例外として象の一行が最初の角を曲がって見えなくなったとたんに王家の馬車が一台、リスボンに向かって走り去っていった。馬車にはポルトガル国王ジョアン三世とその秘書官、ペロ・デ・アルカソヴァ・カルネイロがいたのだが、われわれは今後この男と会うことは二度とない、いやあるいは会うこともあるかもしれぬ、というのは人生というものは予言を嗤い、沈黙すべき場には言葉を持ちこみ、二度と会うことはなかろうと考えていた二人を突然また引き合わせたりするものだからである。象使いの名の意味を忘れてしまった、なんという名だったか、と国王に訊ねられた秘書官はこう答えた、「白い」という意味でございます、陛下、スブフロとは、白、という意味ではございますが、あの者をご覧になってもそれとは思いますまい。王宮の一部屋で天蓋つきの寝台の暗がりに眠る王妃は、悪い夢を見ていた。ソロモンがベレンから連れ去られたことを知り、どうして誰もわたくしに教えてくれなかったのとみんなに訊ねまわっている夢だが、日もすっかり高くなってようやく寝床を離れる決意を固めながら、王妃は、その問いは繰り返すまいと思い、自らの意思でそれを問うことが今後あるかも確信が持てぬと思っていた。それから数年を経て、誰かが王妃のいる場で偶さかに「象」という言葉を口にすることがあれば、ポルトガル王妃カタリナ・デ・オーストリアはこう言うであろう、象といえば、ソロモンはどうしているのかしら、まだベレンにいるの、それともすでにウィーンに送られたの、するとどの者かが、象は確かにウィーンにおります、ほかの野生動物たちと共に動物園のような場所におります、と答え、王妃は邪気のないふりをしてこう言うであろう、なんと幸運な動物でしょう、世界で一番美しいあの街で人生を謳歌しているのね、それに比べてわたくしときたら、今日という日と未来とに挟まれて、どちらにも希望を見いだせぬまま身動きもできやしない。もしその場に同席していれば、国王は聞こえぬふりをし、その秘書官、先ほどわれわれがその名を知ったペロ・デ・アルカソヴァ・カルネイロ、さほど信心深くもないこの男が異端審問について何を意見し、何を黙していたかについては思い出しておくべきだろう、その彼は、どうかあの象が忘却という分厚いマントにくるまれて姿かたちを隠し、想像力の貧困なる者にはこれもまた見てくれの珍妙なヒトコブラクダに、あるいはこういう無意味な話に熱をあげる者たちの記憶にも残らぬ哀れな姿の二つコブのラクダに間違えられますようにと願って天に沈黙の祈りを捧げることだろう。過去とは、石ころだらけの広大な空間であり、自動車が高速道を走るがごとくすいすいと渡れたらと願う者は多いが、実のところは、下に何が隠れているのか確かめつつ、一個ずつ石を持ち上げて辛抱強く渡るしかない。サソリやムカデが這い出てくることもあるだろうし、太くて白い芋虫やまるまるした蛹がいることもあろう。それにしても、一度ぐらいは象が一頭出てこないとも限らないし、その肩には「白」という意味のスブフロという名の象使いを乗せているかもしれないが、その名はこの男を描写するにはまったく不適切であり、ベレンの檻から現れた時のその不潔さといったら、ポルトガル国王とその秘書官の目には男が世話をする象と寸分変わらぬと映ったものである。それは、盛者必衰とはよく言ったもので、これが警告する通りのことが象使いと象の身にふりかかったからであった。彼と象とがベレンに到着したときは一般市民の好奇心は留まることを知らず、宮廷からも王族貴族の男女が団体を組んで見物にやってきたほどであったが、当初の熱狂が瞬く間にしぼむと、結果は見ての通り、象使いのインド式の衣裳はぼろきれと化し、象の体毛やそばかすは、二年の間に溜まった硬い垢にまみれて見えなくなっていた。とはいえ、いまのソロモンはまた違う。道中の土埃で足から膝までが汚れているのが目に明らかではあるものの、その歩みは威風堂々、真新しいピンのごとくつややかで、象使いはといえば、極彩色のインドの衣裳とはいかないまでも新しい制服に身を包んだその姿はまばゆいほどで、さらに良いことには、雇用主の忘れっぽさゆえか寛大さゆえかはわからぬが、この新品の服に彼はびた一文と払わなくてもすんだのであった。ソロモンの首と屈強な身体がつながる場所にまたがり、そこに登る際に使う棒を操って、あるときは軽くピシリと打ち、またあるときは素早く突いて象の硬い皮膚に痣もつけながら、白という意味の名をもつ象使いスブフロは、この物語では第二か第三に重要な登場人物とならんとしている。最も重要なのはまず象のソロモンであって、これは当然主人公であり、続いてはこのスブフロとオーストリア皇太子で、ここではこっち、あそこではあっち、と重要な役を競い合う。とはいえ、現時点では舞台の中央にいる登場人物は象使いの方である。一隊の端から端まで見渡してみると、なんとも雑多な集まりであることに気づかずにはいられないが、それもそのはず、象、人間、馬、ラバ、牛という多種多様の動物たちが一緒にいるわけで、それぞれが違うペースで歩いているのだが、それが自然のペースの者たちと、無理やりそれに合わせている者たちがいる、というのは、結局は一番のろい者に足の速い者が合わさずにいられないのであって、この場合、当然一番のろいのは牛であった。牛は、とスブフロが唐突に警告の声を挙げた、牛はどこですか。牛も、牛が引いている重い荷、満たんの水桶と飼葉の山も姿が見えない。遅れてしまっているに違いない、と象使いは考え、待つほかあるまいと腹をくくった。スブフロは象の背中から滑り降りようとしたところで思いとどまった。もう一度乗ろうとしても乗れないかもしれない。通常は、象は長い鼻で彼を上に乗せて、ちょうどよい場所におさまるようにしてくれる。ところが、用心する気持ちが彼に待ったをかけ、象が、敵意、苛立ち、あるいは単なるへそ曲がりから、自分に梯子をかけさせてリフトの役割をすることを拒むかもしれない、いずれにせよ、怒っている象が、自ら踏み台になり象使いであろうと誰であろうとその背中に登るのを許すはずはない、と考えた。梯子など飾りのような役割しかなく、首にかけるロザリオやどこかの聖人の絵を描いたメダルと同じようなものなのである。いずれにせよ、ここで梯子を使うわけにもいかない、なにしろ梯子は後に遅れている荷台に積まれているのだから。スブフロは助手の一人を呼び、騎兵隊長に牛車を待たねばならないと告げに行かせた。それに休息をとるのは馬たちのためにもなった、とはいえ、実のところ、馬たちはたいして疲れてはいなかった、なにしろリスボンからまだわずかな距離しか動いていないうえ、駈歩どころか速歩すらしていないのだ。今回の行軍は、前回、主馬頭が率いたバリャドリッドへの行軍とはわけが違う、あの英雄的な行軍は古参兵たちの記憶にまだ新しかった。騎馬兵たちは馬から降り、歩兵たちは地面に座ったり横になったりし、この時とばかりに昼寝を決めこむものも少なからずいた。象の背中高くから、象使いはこれまでの旅路をふり返って苦々しい思いをかみしめた。日の傾きから計算するに、これまで歩いたのは三時間ばかりであろうが、それも多く見積もってのことで、実際はその大半の時間はソロモンがテージョ川で長々と水浴びをするのに費やされていた。泥の中を盛大に転げまわるのは、象の論理からすれば「長々とした水浴び」ということなのだろう。ソロモンが興奮して気が立っているのは明らかで、なるべく穏やかに接しなだめてやる必要があった。ソロモンのお遊びにつきあってどれほどの時間を無駄にしたことかと象使いは思い、今度は時間ではなく距離に考えを巡らして、どれくらい歩いたろうか、一レグア【訳注:約五キロ】かそれとも二レグアくらいか、と考えた。」 (翻訳:木下眞穂)